タイトルは親友のあ~やに頂きました。コメントは記事の下のcommentsをクリック
by kyouhei414
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癌・ギランバレー☆闘病記のH・P管理者の日記。
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カテゴリ:易経( 53 )
水地比
比とは親比、親輔、人々互いに親しみあい助け合うの意味。人々が一人の君を仰ぎなついている形である。人と援け合うのはもとより吉であるが、その相手を失してはならぬ。それ故に親しみ合う相手はよくよく推し、自分にとって善き永久的な正しい徳がある人を選び得てこそ、咎なきを得る。このようにすれば今まで不安を抱いて親しむことの無かったものまでやがて慕いよるであろう。そうなってもぐずぐずして遅れて親しんでくるような人は凶である。

訳;
この卦の形は、地に水がしみこむ様子を表していて、いかにも自然に溶け込む様子を表している。人と人が親しみ援け合うと不思議な力が生まれ、陽気を生じる。そして今までは不安に思っていた人たちも自然に集まり結束し陽の輪は広がる。
しかし、ただ一人懐疑的でぐずぐずして遅れてくる人は凶である。つまり折角の輪を乱す元となってしまう。





基本的に自分が相手を慕っていくというのではなく、人に慕われる、という方向のことを言っているのだが慕われたからと言って必ずしも吉とはならず、よく見極め親しみ援け合える相手なら問題はない。それどころか、不思議な力に引き寄せられるように人は集まってくる。その力は簡単には崩せないと思い、何でも出来る、乗り越えられる、強い、など傲慢になったときには凶の波が押し寄せている、という教訓でもある。
問題はその凶の元となるのは案外、外部の事情や、敵陣ではなく見方の中から発生することで、それに気づかないことの方が多い。

もともと、人に慕ってもらおうと考えても簡単には人は集まってくれない。集まってくれたとしても自分の魅力だと思い込みやすいし、集まった人がそう簡単には離れていかないと信じるのが普通だ。
しかし、人が離れていくときのスピード、一旦乱れた時のモロさなどは、気づいたときには手遅れであることがほとんどじゃないだろうか。吉の力が強いのと同じぐらいに凶の力は強いと思えば不思議ではないが、それでもまだ戻ってきてくれる、とか助け合ったあの頃に戻れるはず、と信じて疑わない。その時にはすでに抵抗勢力は威力を増している。
そして、崩れてしまった後には二度と同じ力は産まれな事を知る。。。。。。
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by kyouhei414 | 2007-09-14 00:59 | 易経
火雷噬嗑(からいぜいこう)
噬嗑は亨る。獄を用うるによろし。
噬嗑(ぜいこう)は物を噬み嗑す(かみあわす)の意味。上下のあごを噛み合わせて物を噛み砕く事を意味し、人事をもって言えば良民の障害たる奸悪の人を法に照らして処刑除去し善人の和合亭通を得させる謂である。ゆえに噬嗑(ぜいこう)は亨る。獄を用いて悪人を裁くによろし。

難しいことは置いておいて、異物があるのなら噛み砕いて取り除くべきであるというのが大まかな意味である。異物というのは障害や妨害など進むに当たって邪魔となるものを言うが、これは相手から受けることだけではなく自分の心の中にある不安や疑問も当てはまるような気がする。疑心暗鬼という異物を持って進むより、異物を取り除いて力いっぱい進んだ方が効率がいいし、力も発揮できる。納得できないのに「ハイ。判りました」などと言えばその違和感は異物となり居座る。いつかなんとかなるだろう、と思っていても結局その異物は邪魔になり、早めに取り除いておけば進行も早かった、ということもある。
視界を明るくし進むこと、それには異物を見つけたときに早々に取り除くべきである。そうすれば物事は叶うとなっている。




そして、獄を用いて悪人を裁くによろし、というのはこの卦の形を説明するとわかりやすいが「雷と稲妻が合わさってその電光の明かり(明察)にのっとって刑罰を明らかにし、雷鳴の威嚇(行動力)にのっとって法令を整える」といった状態で、刑罰とは明察と行動力が必要条件であり、この卦にはその両方を兼ね備えているので刑罰を下す条件が整っている、という意味になる。
判りにくいようだが、よく被害者の家族の意見などに「どうしてこんな罪を犯したのか本当のことが知りたい」とか「事実を明らかにして」というような表現がされることがあるが、罪を明らかにし、その刑罰には慎重にかつ果断に実施されるというのが基本的かつ必要条件で、この卦はそれらの条件が整っているということだ。


ある男性が奥さんと子供を当時18歳の青年に殺害された、という事件の差し戻し控訴審に関するニュースが報道されていた。やはり基本はどうしてこんなことをしたのかという事件の中身を明らかにし、そして極刑をもって償って欲しいと願うのが当然であると思う。違う方向からこの裁判に関わる人もいるようだが、その人たちはもともと刑罰のためなのか私利私欲のためなのか疑問に思ってしまう。いや、その人たちも異物となってしまっている気がする。

この卦が言う明かり(明察)というのは決して太陽の明かりではない。雷鳴が照らす明かりは一瞬であっても辺り一面を照らすほどの力のあるものだ。是非戦い抜いてこれらの異物を取り除いて欲しいと思う。
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by kyouhei414 | 2007-05-29 00:37 | 易経
天水訟
訟は孚(まこと)ありてふさがれる。おそれて中すれば吉、終れば凶なり。大人を見るによろし。大川を渉る(わたる)よろしからず。

この卦は争いの意味で、早い話が争いごとがあるときは自分より目上の人、尊敬する人に相談するのがよく、争いごとのあるようなときに大きな事を成し遂げようとするのはよくない、みたいなことである。

もともと人が集まれば争いや訴訟は起きやすい。そして、訟、争いというのは起こるべくして起こることが多い。たとえば、道を歩いていてたまたま肩をぶつけてしまった、という突発的な事は訟、争いにはつながりにくく、冷蔵庫においてある大好きなプリンをいつも許可無く食べられてしまう、それも毎日だ、というようなことが積み重なっていくとそのうち爆発して訟、争いの種となる。食べてしまう方もそういうことが出来てしまうことに問題があって、訟、争いの種は双方が持っている場合が多い。
孚(まこと)ありてふさがれる、というのはもともと訟、争いというのは特に悪いこともしていないのに、相手のために言動などを妨げられ塞がれる(ふさがれる)事により発生するという事で、言ってみれば本来は自由であってもいいのに相手がその自由を奪うかのように言動を否定、制限されたり圧力をかけられたりすれば当たり前のように訟、争いは起きるということだ。

そういう場合、原因などを冷静に考え反省するところは反省し、改める所は改めれば吉、で、むやみに訟、争いに立ち向かえば凶、と言っている。できるなら話のわかる誰かにいっそ任せてしまえばいい。

それから訴訟、争いは最後まで戦ってはいけない、それより訴訟を無くさせる、と孔子の論語にもあるそうだが、闘い通すことでかえって感情のもつれや、恨みつらみが残ってしまえばそれは先々の凶の種にもなってしまう。闘い尽くすして感情のもつれを残すのか、種をつまんでやり過ごすのか、どちらかというと闘い尽くす方を選ぶ人のほうが多いのかもしれない。。。。
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by kyouhei414 | 2007-04-18 00:19 | 易経
山火賁(さんかひ)
賁(ひ)は飾りを意味する。象形としては山が夕日に映し出されている様子。「文飾彬彬を得れたれば必ず亨るべきであるが文飾は度をこせば不可であるから、少しいくところによろしい」としていて、この卦は大事は願いが叶わないが、小さなことならかなう、という意味になっている。

なにやら難しいが、人が集まればそこには礼儀という飾りが必要だし、物が集まればそこには秩序が飾りとして必要になってくる。しかし、あくまで飾りは飾りであって物事の本質を変えるまでの力はない。たとえば、いくらお化粧をして飾ったとしても本質的なお肌のシミやしわは消せないといえばわかりやすい。
そして、飾りの落とし穴は飾った姿を本当の姿として追い求め実態を忘れてしまうことや、飾ってだましたつもりが、実は自分自身がだまされてしまった、などということで、本質や実態を忘れたり、見失うことが一番怖い。
たとえば、お化粧をして綺麗になった自分を本当の自分と思い込んでしまい、お化粧を取った顔で鏡を見たとき「誰これ?」と驚くといえばわかりやすい。

それに、山をどこから見るかで評価は変化する。それは飾った姿を見ているからで本質が見えていないだけである。自分の評価が人によって違うのもどこから見られていたかによる違いなのかもしれない。
本質を見抜くことは難しく、人間関係で言うなら相手の本質を見抜こうと思っても同じように自分が飾った姿で相手と接している限りは相手も本質をさらけ出してくれることは望むのも難しい。誰でも見栄えを良くしようと飾りをするし、その飾りにだまされる事だって不思議ではない。飾りと無縁に生きてきた、などという人はいないだろう。
 



「自然の文様、人間の文様、これらを観察して天下の人々を教化育成すべきである」とある。これは自然には剛と柔が混ざりわって飾りあう、人間は秩序によって飾りあう。それらの飾りを観察することが大切だ、という事。
飾りは飾りにすぎないが、その飾りを観察することで得られる事はある。


物事の本質を語るのは難しい。人間はそうして飾ることが当たり前であるし、アクセサリーをつけたがるのが本質なのだ。ただ、アクセサリーをつけたところで所詮飾りにすぎず、それ以上でも以下でもない。
そして、相手がアクセサリーを外し飾りを取ってしまった姿を追求したがる傾向もあるがそれは想像するだけのことで得られるものは少ない。どちらかというと相手の飾りのペースに巻き込まれているのかもしれない。
むしろ、アクセサリーが何か、どんな飾りをしているのかを観察することの方が必要なのかもしれない。
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by kyouhei414 | 2007-02-25 00:20 | 易経
中孚(ちゅうふ)
中孚は豚魚にして吉なり

孚(ふ)とは卵が孵化することを意味した漢字。卵はきっちり期日を守って孵化する所から「信(まこと)」となる。中孚とは中心に孚(信)があるということで誠心、真心などを意味する。
この卦の形からしても真ん中が空になっていて、真ん中とは心の中心が空虚、虚心、無心、であることを表していて、つまり心の中心に信があることである。
豚魚とは貧しいものがお供えに使っていたもので、たとえ貧しくとも心の中心に信(まこと)があるなら豚魚であろうと神は嘉納(献上品などを目上の者が快く受け入れること)して福を与えてくれる。


心に信があるなら、言葉など必要とせずお互いに理解しあえる。反対に言うと、心に濁りのある信は通じない。
これは簡単なようで難しい。人間はこざかしいたくらみや、ごまかしが得意である。特に「他人に親切にする」という行為はどこか計算が働くことが多い。「これをしてあげたら、これが得られる」「この行為は親切と受け取られるから」「こうしてあげるから、これを頂こう」など、当たり前のように心の中心では思う。しかし、これらは全て親切とは言わず、思い上がりという。それは自信がありすぎるからで、信も過度になりすぎるようでは凶である。
反対に、親鳥が子鳥を思って鳴くと小鳥はどこにいようが答える、という美しいたとえで易は表現しているが、そのようであれば吉だと教えてくれる。


とある出来事があり、何度も話し合っても通じずもどかしさを感じている。相手に対してどうして理解をしてもらえないのか、という気持ちと、相手がどうして自分を理解をしようとしないのか、という気持ちが入り混じるせいか問題は停滞している。


問題だと思う出来事の中には「理解しあえない」「相手に通じない」事が邪魔になっていることが多い気もする。それに、何も問題を解決することだけが全てではない。誠心誠意が通じお互いに理解ししあえたとき、問題だと思っていたことが実は自分が作り出したお荷物だと気づくかもしれない。
まずは自分自身が無心にならなくてはいけないのかも・・・・・
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by kyouhei414 | 2007-01-26 00:18 | 易経
毎年この時期になると「今年もあっという間に終わる。年初の抱負は空虚な妄想にすぎなかった・・」と嘆くのが私の行事だ。最後に「又年を食うのか・・・」とぼやくのも忘れない。
ただ、今年はもっとひどい。目的にしたこと、進むべき道、希望したこと、それらがすべてから回りした感じだ。たとえて言うなら枝分かれした道を興味本位で歩き、その道の途中のあちこちで道草を食ったら年初の抱負を忘れてしまって気がついたら一年が終わった、みたいな感じだ。



易経には順番があるが私はその順番どおりに書いているわけではないのだが・・・・
以前、水沢節という卦を書いたことがあるけれどその順番がなぜ今日は気になった。
「渙(かん)とは散って離れるという意味である。しかし物事はいつまでも離散の状態ではあってはならず、適当な節度、区切りをつけなければならない。そこで次には節の卦がおかれる。節度があってこそ人からもその誠意を信用される」とある。
つまり、私のように年初の抱負がどこへ行ったか判らないほど散ってしまい、適当な節度、区切りもつけられない人はいつまでたっても自分の元には何も残らないのである。

とは言っても、せめて年の終わりや初めには、反省、そして抱負を持つことぐらいはしたほうがいい。たとえ来年の終わりに「空虚な妄想」だとがっくりしても、「来年こそは」と気張るきっかけにはなっている。そうだ、そう思えば「空虚な妄想」だって「また年を食う」事だって一つの節じゃないか? 未来は明るいぞ!!!!!


と、自分を正当化して今年を終えたい。
いや、正当化なんかじゃない。昨年一年間の間に、前向きに成長したのだと思っておこう。
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by kyouhei414 | 2006-12-31 01:24 | 易経
大壮
大壮は大なる者が壮ん(さかん)の意味。大(陽)が長じてなかばをすぎれば壮んなる卦象にとる。勢いが壮んな時はつい調子にのりすぎる嫌いがあるから、貞正にするのがよろし。
盛んなときは傲慢に陥りやすいから君子はこれを警戒してかならず礼に外れた行いをしないように心がける


人生の中で一度ぐらいは勢いの盛んな時がある。この卦はその勢いの盛んなときのことを言っている。好調な時期というのは誰もが求めることであるが、一旦手に入れると案外それがあたかも当たり前だったかのように好調の波にふんぞり返り、そしてそれが敵を作り、傲慢になり、つい調子に乗る。そして気がついたときには好調の波は去っている。「あの頃はよかった」と後で振り返るだけの場合もあるから始末が悪い。
ラ○○○ア事件の中心人物が「調子に乗りすぎた」と告白したというが、傲慢になってしまったという点ではまさによい例なんじゃないかと思う。

なら、誰もがそうやって好調の波を過ごしてしまうかというと、必ずしもそうではないと教えてくれるのがこの卦のいいところである。
それが「貞正にすること、礼に外れた行いをしないこと」というのだが・・・
大壮というのは大なる者が壮んであるということで、大なる者は正しくあれ、すなわち正大であれ、と説いている。
又、礼というのは壮んなときこそ傲慢になりやすいから礼に外れないように心がけることが必要となる。
なにやら難しいが、好調の波にふんぞり返ることなく、
かえって好調の波を警戒し、礼を忘れないこと。それには自分に勝つ強さが必要だ。「自ら勝つ者は強し(老子)」とは好調を維持するためには強さが必要である、いや、強いからこそ好調を維持できると取る事もできる。

つまり、私のように自ら勝てない者は正大から程遠いわけで好調の波を逃がすか、見過ごすか、過ぎ去っていくのを呆然と見るだけか、はたまた過ぎ去った後に気づくのがオチである。
それに気づいただけでもこの卦は大いに私にとっては意味がある。
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by kyouhei414 | 2006-12-13 00:19 | 易経
雷沢帰妹    
帰妹とは妹(年少の娘)を長男に帰(とつ)がせるという意味。しかし、年少の娘にふさわしいのは少年であり、行けば凶。何もいいことはない。形でいうと少女が長男に嫁ぐ事を表していて、その上女の方から先立って行動を起こす。そのこと自体が不祥であり、はじめから無理があるので長続きもしないし、嫁げば凶となる状態を表している。

天地も陰陽こもごも感じあうことがなければ万物は発生しない。同様に帰妹こそは人倫の終始をなすものだとも言えよう。
と、天地の原理のようなものも強調していて嫁ぐことが悪いのではなく、はじめるときに無理がないか、万事に遠い将来の終わりまでを見通して行動をするか、というところが重要だと言っている。”はじめが悪いと失敗を招く”ことをしる卦なのだ。


細木氏の番組で独立して経営を始めたがうまくいかない、というような相談を話し合っていた。腕があるから独立をする、というのはいたって普通の考えでそれ自体が悪いということではない。しかし、はじめるときに経営を勉強したのか、資金繰りなどの試算を行ったのか、様々なことを準備しなくてはならない。はじめにそれらを間違えてしまうとボタンを掛け違えたように悪い方向へと進んで行き、結局は失敗を招いていしまう。
しかし、どちらかというと誰でも最初の間違いを指摘するより、都合の良い方へ考え「値段を下げたらひょっとしたらいけるかも」とか「場所が悪かっただけかも」などと考え判断をにごらせる。


私も最初の判断を誤るのは常で、ついつい自分の都合の良い方へ考え、事態の悪化を招く。最悪の場合は一からはじめなければならないという羽目に陥る。
よく地図を見ないで車を走らせ結局道に迷い、目的地にたどり着けないとか
セーターの網目を最初に作るときによく確認せず、出来上がったら食い違ってはじめからやり直しとか、小さな事でも上げたらきりがないほど出てくる。
人生の大切な場面でも当然のように同じようにはじめが悪くて失敗。。。なんて経験した。



物事がなるにはタイミングというのも大切だ。無理に自分からタイミングを作って見切り発車さえしないこと。。。失敗をしないためには覚えておいてもよさそうだ。 
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by kyouhei414 | 2006-10-28 00:15 | 易経
山沢損
自分が使わないものを処分しようと思い、整理に忙しかった。というのも捨ててしまうにはもったいない、というものをオークションに出すことにしたのだが、そのオークションというのが結構手間がかかる。写真を撮影し、ページに掲載しひたすら落札者が出てくるのを待つ。
運がよく、めぼしいものはほとんど落札されて廃棄処分にせずにすんだ。しかし、一気に出したため一気に落札、で、一気に発送・・・
何だか疲れてしまった。。。。。。やっと今日落ち着いたところだ。
でも、物を捨てずに欲しいと思ってくれた人の所へ渡っていき、なんとなく安心感も残った。

しかし、物というのは捨てずにいると気づいたときには結構たまっている。





易経に山沢損というのがある。
「損はへらすの意味。人事にたとえれば下、臣をへらして上、君に益すこと。人を減らすに当たっては誠意があってこれを行うならば大いに吉であって咎めはない。ただ、貞正なることは守らねばならぬ」ということで、これは下から上に上る、下を減らして上を益すという意味で、下から上にのぼる時の下に重点が置かれている。
減らすというのは一方的に悪い意味ではなくて、下を減らして減らした分は上に益す、余りあるものを損し、不足のものを益し、かけたものを満たしなくしたものは満たすという意味もあり、何を減らすか、そしてその減らす時期さえ間違わなければ思うことは通るとなる。


減らすのは何も物だけではない。最後に自分の心の中にある怨念、欲を減らすことを心がけるように、とあるのを忘れないようにしよう。



<今日の一枚>
秋の日差しは気持ちよさそうだ

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by kyouhei414 | 2006-09-26 00:29 | 易経
離為火
離は貞しきに利ろし。亨る。牝牛を畜(やしな)えば吉なり。

大まかにいうとこの卦には付く、という意味がある。
物事は必ず何かと関わり合い成り立っている。正しいものと関わるのなら、吉である。

易の実際はひとつの卦に6つの爻辞がある。この離為火の大まかな意味は上の通りだが、爻辞の3番目に「人生に即して言えば衰余の老年である。しかし、生者必滅の道理を悟れば、缶(酒を入れる瓦器)を叩いて歌いつつ、残りの寿命を楽しむがよい。それができなければいたずらに大てつ(八十の老人)の老衰を嘆くことになって凶である」としてある。
生あるものは必ず没するのが常であり、それを悟って残りの寿命を楽しむのがいい。それができないのなら、ただ老いを嘆くだけで終わってしまうわけで、楽しむどころか苦しいだけで終わってしまう。

これを見たとき、叔父がファックスで書いてきた「なるようにしかならぬ、ケセラセラ」を思い出す。いくつまでの天命か判らないが、癌になってしまったのをいつまでも嘆いていても仕方ない。残りの人生を楽しむんだ、という意味が含まれている。
しかし、そこにあきらめや嘆きがあるわけではなく、元気で長生きをしたいという叔父の強い願いを感じる。

終わりがあると悟ったからこそ初めて楽しむということを理解できるのかもしれない。



参考までに現在の天皇陛下の名前である、「継宮明仁」は易のこの離為火の中の
「明両たび作るは離なり。大人以て明を継ぎ四方を照らす」
から採ったという
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by kyouhei414 | 2006-09-06 00:50 | 易経