タイトルは親友のあ~やに頂きました。コメントは記事の下のcommentsをクリック
by kyouhei414
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
癌・ギランバレー☆闘病記のH・P管理者の日記。
愛犬の写真は
Bowwow diary
にもアップしてます。主に失敗作ですが、愛着あるのでついついアップしてしまう私です・・・
又、こちらに愛犬グッズサイトを始めました。
H・Pに戻る
カテゴリ
全体
愛犬
コラム

易経

その他
スピリチュアル
老犬介護
未分類
以前の記事
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 02月
2013年 11月
2013年 09月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 01月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 12月
2005年 11月
2005年 10月
2005年 09月
2005年 08月
2005年 07月
2005年 06月
2005年 05月
2005年 04月
2005年 03月
2005年 02月
2005年 01月
お気に入りブログ
日々の暮らしとわんこと手...
ライフログ
検索
記事ランキング
その他のジャンル
ファン
ブログジャンル
画像一覧
カテゴリ:スピリチュアル( 10 )
スティーブ・ジョブズ氏の講演
スティーブ・ジョブズ氏が亡くなられた。その彼の有名な講演とされる前文の日本語を掲載。
一部を抜粋してあるのはよくみかけますが、全文を読む方が伝わるものが多いと感じました。


*******


ありがとう。今日は世界で最も優秀と言われる大学の卒業式に同席できて光栄です。実は私は大学を出ていないので、これが私にとって最も大学の卒業に近い経験になります。今日は私の人生から3つのストーリーを紹介します。それだけです。大したことありません。たった3つです。

最初は、点と点をつなぐ話です。
私はリード大学を6ヶ月で退学しましたが、本当に辞めるまで18ヶ月ほど大学に居残って授業を聴講していました。ではなぜ辞めることになったか?
その理由は私が生まれる前に遡ります。私の生みの母親は若い未婚の大学院生でしたので、彼女は私を養子に出すことを決めていたのです。彼女は育ての親は大学を出ているべきだと強く感じていたため、ある弁護士の夫婦が出産と同時に私を養子として引き取ることになっていました。ところが、私が生まれる直前に、本当に欲しいのは女の子だと。そういういきさつで、養子縁組を待っていた今の両親は夜中に「予想外に男の子が生まれたので欲しいですか?」という電話を受けたのです。彼らは「もちろん」と答えました。しかし、生みの母親も後で知ったことですが、母親は大学を出ていない、父親は高校も出ていませんでした。そこで、生みの母親は養子縁組の書類へのサインを拒みましたが、何ヶ月か経って、今の両親が将来私を大学に行かせると約束してくれたので、気持ちが整理できたようです。これが私の人生の出発点になったのです。
17年後、実際に大学に入りましたが、私はあまり深く考えずにスタンフォード並みに学費の高いカレッジを選んでしまったので、労働者階級の親の収入のほどんどは大学の学費に使われていました。半年もすると、私はそこに何の価値も見出せなくなっていたのです。人生で何がやりたいのか私自身に考えがなかったですし、それを見つける手助けを大学がどうしてくれるか思いつきませんでした。なのに自分はここにいて、親が生涯かけて貯めた金を使い果たしている。だから退学を決めたのです。それが全てうまく行く道だと信じて。もちろん当時はかなり怖かったです。ただ、いま振り返ると、これが人生で最良の決断だったのです。というのも、退学した時点で興味ない必修科目は受けなくてもよく、自分にとって面白そうな授業に集中できたからです。
寮には自分の部屋もなく、夢を見れる状態ではありませんでした。夜は友達の部屋の床に寝泊りさせてもらってたし、食費のためにコーラ瓶を店に返して5セント集めしたり、日曜夜はハーレクリシュナ寺院のご飯を食べに7マイル歩きました。これが私の楽しみでした。こうした自分の興味と直感に従うだけの多くの体験があとになって値段がつけられない価値に変わったのです。ひとつ具体的な話をしてみましょう。
リード大学には、当時おそらく国内でも最高のカリグラフィ教育がありました。見渡せばキャンパスにはポスターから戸棚に貼るラベルまで美しい手書きのカリグラフィばかりだったのです。私は退学したのですから普通の授業はとる必要もないのでカリグラフィの授業を受けて手法を学ぶことにしたのです。私はそこでセリフやサンセリフの書体について習ったり文字と文字のスペースを変えていく概念についてつまり異なる文字のコンビネーション手法など素晴らしいフォントの作り方を学問として学びました。フォントは、美しく、歴史的にも、芸術的にも、科学で把握できないほどの緻密さでしたのでそれは私にとって魅力的な発見となったのです。
フォントは、人生の役立つという期待すらありませんでした。しかし、それから10年経って最初のマッキントッシュ・コンピュータを設計する時にその知識が役に立ち、マックの設計に組み込むことにしました。こうして初めて美しいフォントを持つコンピュータが誕生したのです。もし私が大学であのコースを寄り道していなかったら、マックには複数の書体も字間調整フォントも入っていなかっただろうし、ウィンドウズはマックの単なるマネに過ぎないのでこうしたパソコンがいま世界に存在しないかもしれません。もし私が大学を退学していなかったら、あのカリグラフィの授業に寄り道することはなかったしパソコンには素晴らしいフォント機能がないかもしれない。もちろん大学にいた頃の私には、未来を見据えて点と点をつなげることはできませんでした。しかし10年後に振り返えると、とてもハッキリ見えることなんです。
もう一度言います。未来に先回りして点と点をつなげることはできない。君たちにできるのは過去を振り返ってつなげることだけなんだ。だから点と点がいつか何らかのかたちでつながると信じなければならない。自分の根性、運命、人生、カルマ、何でもいいから、とにかく信じるのです。歩む道のどこかで点と点がつながると信じれば、自信を持って思うままに生きることができます。たとえ人と違う道を歩んでも、信じることが全てを変えてくれるのです。



2つ目は、愛と敗北についての話です。
自分が何をしたいのか人生の早い段階で見つけることができたことは幸運でした。実家の車庫でウォズとアップルを創業したのは、私が20歳の時でした。私たちは仕事に没頭し、10年間でアップルはたった2人の会社から4千人以上の従業員を抱える20億ドル企業に成長しました。私たちは最高傑作であるマッキントッシュを発表しましたが、そのたった1年後、30歳になってすぐに、私は会社をクビになってしまいました。自分が始めた会社を首になるなんて不思議ですが、こういうことなんです。アップルの成長にともなって、私は一緒に経営できる有能な人間を雇い最初の1年はうまくいっていました。しかし、やがて将来ビジョンについて意見が分かれ、仲たがいに終わったのです。取締役会は彼に味方し、私は30歳にして会社を去りました。まさに社会的に追放された感じでした。私の人生のすべてを注ぎこむものが消え去ったわけで、それは心をズタズタにされた状態になりました。
数ヶ月は本当にどうしたらいいのか分かりませんでした。自分が前世代の起業家の実績に傷をつけてしまい、手渡されたリレーのバトンを落としたように感じました。私はデイヴィッド・パッカードとボブ・ノイスに会いひどい状態にしてしまったことをお詫びしようとしました。まさに社会的脱落者となりシリコンヴァレーから逃げ出そうと考えたほどです。しかし自分がやってきたことをまだ愛していることに少しづつ気づきました。アップルの退任劇があってもは私の気持ちは全く変わらなかったのです。私は会社で否定されても、私はまだ好きだったのです。だからもう一度やり直すことに決めたのです。
その時は分からなかったのですが、やがてアップルをクビになったことは、自分の人生最良の出来事だったのだ、ということが分かってきました。成功者の重圧が消え、再び初心者の気軽さが戻ってきたのです。あらゆるものに確信はもてなくなりましたが。おかげで、私の人生で最も創造的な時期を迎えることができたのです。
その後の5年間に、私はネクストという会社とピクサーという会社を設立しましたし、妻となった素敵な女性と恋に落ちました。ピクサーは世界初のコンピュータによるアニメーション映画「トイ・ストーリー」を創りました。いま世界で最も成功しているアニメーション・スタジオです。思いもしなかったのですが、ネクストがアップルに買収され私はアップルに復帰することになり、ネクストで開発した技術は現在アップル再生の中核的な役割を果たしています。さらには、ロレーヌと私は素晴らしい家庭を一緒に築いています。
ここで確かなのは私がアップルをクビになっていなかったら、こうした事は何も起こらなかったということです。それは大変苦い薬でしたが、患者には必要だったのでしょう。人生には頭をレンガで殴られる時があります。しかし信念を失わないこと。私がここまで続けてこれたのは、自分がやってきたことを愛しているからということに他なりません。君たちも自分が好きなことを見つけなければなりません。それは仕事でも恋愛でも同じこと。これから仕事が人生の大きな割合を占めるのだから、本当に満足を得たいのであれば進む道はただひとつ、それは自分が素晴らしいと信じる仕事をやること。さらに素晴らしい仕事をしたければ、好きなことを仕事にすること。もし見つからないなら探し続けること。落ち着かないこと。心の問題と同じで、見つかったときに分かるものですし、愛する仕事というのは、素晴らしい人間関係と同じで、年を重ねるごとに自分を高めてくれるものです。だから探し続けること。落ち着いてはいけない。


3つ目は、死についての話です。
私は17歳の時、こんな感じの言葉を本で読みました。「毎日を人生最後の日だと思って生きてみなさい。そうすればいつかあなたが正しいとわかるはずです。」これには強烈な印象を受けました。それから33年間毎朝私は鏡に映る自分に問いかけてきました。「もし今日が自分の人生最後の日だしたら今日やる予定のことは私は本当にやりたいことだろうか?」それに対する答えが「ノー」の日が何日も続くと私は「何かを変える必要がある」と自覚するわけです。
自分がもうすぐ死ぬ状況を想像することは最も大切な方法です。私は人生で大きな決断をするときに随分と助けられてきました。なぜなら、他人からの期待、自分のプライド、失敗への恐れなど、ほとんど全てのものは…死に直面すれば吹き飛んでしまう程度のもので、そこに残るものだけが本当に大切なことなのです。自分もいつかは死ぬと思っていれば、何か失うのではかないかと危惧する必要はなくなるので、私の知る限りの最善策です。失うものは何もない。思うままに生きてはいけない理由はないのです。
今から1年ほど前、私は癌と診断されました。朝の7時半にスキャンを受けたところ、私のすい臓にクッキリと腫瘍が映っていたんですね。私はその時まで、すい臓が何かも知らなかった。医師たちは私に、これはほぼ確実に治療ができない種類の癌であり、余命は3ヶ月から6ヶ月と言いました。そして家に帰ってやるべきことを済ませるよう助言しました。これは医師の世界では「死」を意味する言葉です。それは、子供たちに伝えた10年分のことを数カ月で済ませておけ、という意味です。それは、家族が心安らかに暮らせるよう全て引継ぎをしておけ、という意味です。それは、さよならを告げる、という意味です。
私はその診断書を一日抱えて過ごしました。そしてその日の夕方に生体検査を受けました。喉から内視鏡を入れ胃から腸に通してすい臓に針を刺して腫瘍の細胞を採取しました。私は鎮静状態でしたので、妻の話によると医師が顕微鏡で細胞を覗くと泣き出したそうです。というのは、すい臓ガンとしては珍しく手術で治せるタイプだと判明したからなんです。こうして手術を受け、ありがたいことに今も元気にです。
これは私がもっとも死に近づいた瞬間で、この先何10年かは、これ以上近い経験がないことを願います。こうした経験をしたこともあり、死というのが有用だが単に純粋に知的な概念だった頃よりも、私は多少は確信も持って言えます。
誰も死にたいと思っている人はいません。天国に行きたくても、そこに行くために死にたい人はいません。それでいて、死は誰もが向かう終着点なのです。かつて死を逃れられた人はいない。それはそうあるべきだから。なぜなら「死」は「生」による唯一で最高の発明品だから。「死」は「生」のチェンジエージェントだから。つまり古いものが消え去り、新しいものに道を開ける働きです。いまの時点で、新しいものとは、君たちのことです。でもいつかは、君たちもだんだんと古くなり、消え去るのです。あまりにドラマチックな表現なのですが、それが真実なのです。
君たちが持つ時間は限られている。人の人生に自分の時間を費やすことはありません。誰かが考えた結果に従って生きる必要もないのです。自分の内なる声が雑音に打ち消されないことです。そして、最も重要なことは自分自身の心と直感に素直に従い、勇気を持って行動することです。心や直感というのは、君たちが本当に望んでいる姿を知っているのです。だから、それ以外のことは、全て二の次でも構わないのです。


私が若い頃 "The Whole Earth Catalogue 全地球カタログ" というすごい出版物があって、私と同じ世代ではバイブルのように扱われていました。それはステュアート・ブランドという人が、ここからそれほど遠くないメンローパークで制作したもので、彼の詩的なタッチで彩られていました。1960年代の終わり頃はパソコンもDTPもない時代ですから、全てタイプライターとハサミとポラロイドカメラで作られていました。それはまるでグーグルのペーパーバック版のようなもので、グーグルが35年遡って登場したかのような理想的な本で、すごいツールと壮大な概念に溢れかえっていました。
スチュアートと彼のチームは ”The Whole Earth Catalogue” を何度か発行しましたが、ひと通りの内容を網羅した時点で最終号を出しました。それは1970年代半ばで、私がちょうど君たちの年代だった頃です。最終号の裏表紙は、朝早い田舎道の写真だったのですが、それはヒッチハイクの経験があればどこか見たことある光景でした。写真の下には "Stay hungry, Stay foolish." という言葉が書かれていたのです。 Stay hungry, Stay foolish. それが、発行者の最後の言葉だったのです。それ以来、私は常に自分自身そうありたいと願ってきました。そしていま、卒業して新しい人生を踏み出す君たちに、同じことを願います。
Stay hungry, Stay foolish. ハングリーであれ、バカであれ。
ご清聴ありがとうございました。(
[PR]
by kyouhei414 | 2011-10-10 00:02 | スピリチュアル
金縛り
人生で初の金縛りにあった。


夜中に身動きが取れなくなり目が覚めたのである。目が覚めたのは寒かったからで、布団をかけなおそうと思っても体が全く動かない。特に手を動かそうと思っても上にも上がらない。
どうしたものか。


しかし、顔は動くようだ。金縛りって顔は動くのか。
そう思いながら、布団の上を見るとなんと布団の上にジュディーが右、さくらが左という形で乗っている。そして布団を動かそうとしてもがっつり爆睡の2匹は動こうともしない。更に悪いことにその布団は左右に引っ張られていてピーンと張った状態なのだ。
つまり、張り詰めた掛け布団が私の上に覆いかぶさり左右にイヌというオモリが乗っかっていて動けなかったというわけだ。





「これがうわさの、金縛りか」
と思った私はアホである。



数日前に、恐怖映像の番組を放送していてつい見てしまった。実際の映像とのことだがまるでホラー映画のようなものもあり、うそ臭いものもあったが顔を手で多いながら手の隙間からしっかり見させて頂いた。
その影響でホラー化した脳みそが”思い込み”を生み出したのである。
恐るべき恐怖映像の影響力。。。。



って、ことにしよう。


今日の一枚
お化けより花火の音の方が怖いジュディー
c0057041_061959.jpg

[PR]
by kyouhei414 | 2011-09-13 00:07 | スピリチュアル
偶然
生きていて偶然はないのだ、と言う人もいれば偶然の出来事があると考える人もいる。
どちらが本当だろうか。




人は謙虚に生きれば偶然などはないと考える。
例えば良いことがあったとしてもそれは偶然ではなく、与えられたものだと受け取る。そして自分以外にも与える優しさを生む。
何か目の前に試練がはばかったとしても、これは乗り越えるべき壁である、と静かにその壁を見上げ頑張ろうとする。



謙虚に生きることは簡単ではない。しかし、私は最近とても謙虚に生きて、そして今壁を乗り越えようとしている人を見た。
その人は、愛情を沢山もてる大きな袋を持っていると、以前から感じていた。変な表現だが、本当に愛情というドラえもんのポケットに似た袋を持っているかのような感じがするのだ。


そして私はその人と知り合ったことを偶然とは思えないでいた。
私は決して謙虚な生き方をしてない。教えられたというべきだろう。
それを改めて感じているところである。




とにかく、応援している。
正直、応援だけでは足りないのではと思う。
他に何ができるのだろう。
乗り越えて笑顔を見るまでは応援し続けたい。
[PR]
by kyouhei414 | 2011-08-12 00:22 | スピリチュアル
メロンだっ
おいしかった~。
Yさん、ありがとです!!!!!


久しぶりにYさんと話してなんだかトンチンカンな内容を一人でしゃべってた気がしてます。ごめんね~
でも、本当に美味しかったです。
一日一つ食べても飽きないので、満たされた毎日を過してます(笑)



メロンさいこ~
そして美味しく頂いた後はこんな感じで昼寝してます。
ってこれ、さくらやんけ
c0057041_23295835.jpg

[PR]
by kyouhei414 | 2011-05-31 23:30 | スピリチュアル
スピリチュアル シリーズ  リーディング編
カウンセリングの時間は30分。限られた時間にどれだけのことが聞けるのだろうか、と期待はしていたが以外にも色々な内容を聞けた。実際にはその先生が見えるものや状況を私に伝えてくれるのでストーリーになった出来事を話してくれる、というものではなかった。例えば祖母が出たとしてもそれが私の祖母かどうかはその先生には判らない。そこで、その見える状況を私に伝えそこからの判断は自分次第ということになる。
物の場合は、その先生に見えたとしても先生にはその見えたものと私の関係などはわからない。聞いた話だと、ろうそくが出てきてその先生も意味が判らなかったし、その本人も意味が判らなかった。しかし、震災で停電がありろうそくを灯した、という結果になった、という具合だ。

さて実際のカウンセリングだが。
私の場合も数人の人が出てきたしいくつかの物も出てきた。その中で「亡くなった父が私にメガネを買えと薦めている」といわれた。私の目に何か問題があるかと聞かれたが事実視力が悪くなってきている。しかし、メガネを改めて買うほどでもないし、受け流した。すると更に父が何故かブルーのような色のメガネを指差してこれがいい、と薦めているといわれた。そういうメガネを買う予定があるかと聞かれたが、正直全くない。
「お父さんは気になってるみたいだね。一体どうしてだろね?」 という事でその話題は終わった。


それから半月ほどした時だった。私は車の運転用に車内にメガネを置いてる。ついうっかり忘れてしまって車に乗ったらメガネがなかった、というのがイヤだからだ。それがその日はその車内用メガネが見つからない。何処を探してもない。どうやら落としたようだ。
数日後、家の門の上にそのメガネがボロボロになった姿で置いてあった。どうやら家の駐車場で落としたらしく車で踏んだような跡もあった。しばらくそのメガネを見て呆然とした。実はそのときまでリーディングで言われたことを忘れていたのだった。しかし、そのメガネを見たとき、これではいくら見つかっても修理が不可能だとわかり、購入しなくてはいけないと思った瞬間、リーディングで出てきた父の言葉を思い出したのだった。

それからしばらくして、ショッピングセンターというのかそれよりは大きいが、そこの中のメガネ屋さんでいつも買っていた。たまたまそこへ寄る用があったので、ついでに父の薦めているブルーの色の入ったメガネを探しにそのメガネ屋に立ち寄った。店員さんに「父にブルーを薦められました」と説明するがその自分がおかしかった。実際に言われたわけでもないのに。。。。
そして、前回の視力のデータがあるのでついでに視力を測ってみましょう、と言われ測定した。乱視が悪化していてやはり見えにくくなっていた。今もっているメガネとサングラスも度数を変えたほうがよいのでは、という結果だ。
フレームもブルーの入ったメガネは難しいといわれたが、一つだけ茶色の中にブルーの入ったフレームがあり、それが一番顔としっくりくるデザインだった。



その後、この出来事につてい偶然だろうと事実だろうとどちらでも構わないと思った。
要するに、人は死んでしまっても魂は生きている、そうスピリチュアルでは伝えているがその意味が少しだけ身近に感じられたことの方が私には重要だった。


父と恭平が亡くなってからというもの色々なことが変化した。悲しさや辛さは何を持っても埋められない。何が埋めてくれるのだろうかと模索すればするほど判らなくなる。そして次第に生きることへの疑問すら感じる。何もしていない自分の過去を思い起こし頑張る意味を見失う。今までも頑張ってなかったじゃないか。。。と。
叔父は言う。「少しでも長く生きていたいからな」と。でも「いつ死んでもいいんだよ」と。
父も言った。「長くとは言わない。もう少し頑張りたいんだ」と。でも「ダメならダメでそれでいい」と。
そこまで言えるほど生きていないんだな、と思う。



不安、恐れ、恐怖、怒り、恨み、そういったネガティブなものは叔父とこのときの父には微塵もない。スピリチュアルではそういうネガティブな感情をカルマと言うらしい。
亡くなった人の魂はもちろん、自分を守ってくれたり、本来の道へ導く役目の霊などがいると考えるスピリチュアルの世界では、そういうネガティブな感情を捨てることが大切だといっている。そういうネガティブなものを捨てることで本当は自分がどんな姿なのか、今何をすべきなのかが少しずつ判ってくるという。

早い話が私たちがよく耳にする守護霊様とか指導霊とかがいて、その人たちは自分をきちんと守ってくれているが実生活では全くそういう事を考えもせずに好き勝手に生きて、好き勝手に文句や不平を言っている。
その守りを感じられるようにするには、ネガティブな感情を捨てることが必要だということだ。




きっと色々な守りを感じ、ネガティブな感情をそぎ落としたなら、新しい道が見ているかもしれない。でも、そんな容易に出来ることではない。
そもそも守りなんて信じたくもなかった。あれだけ頑張ったのに天に昇るなんて、守りがあるはずもないと、反抗的だったし、魂があるはずなんてない、と懐疑的だった。
しかし、今は父の薦めたメガネをかけてパソコンに向かっている。
[PR]
by kyouhei414 | 2011-05-29 01:17 | スピリチュアル
続き
ある時に江原さんがイギリスのスピリチュアルの学校で訓練していたときの通訳を務めていた方で後にその学校の先生になられた方を知るきっかけがありました。そのいきさつがあったのでスピリチュアル関係に関わることになったって感じです。そのついでにカウンセリングを受けました。

話はそれましたが、江原さんの著書がどのようなことに触れているか判らないので何とも言えませんが、私が読んだ本や聞いた話などでは一生懸命生きるという事は述べられるケースが少ないのに驚きます。つまりは自分がやるべきこととか与えられたことや自分の能力を生かす事ができれば充実しているといえるということらしいです。上手くいえませんが・・・・・
日本人はとかく誰よりも一生懸命になることを美としているし、今回の震災でもそういった精神論がベースにある気がしています。精神論を広げても誰かに光を与えることはつながりません。


同じく生かされている、とも考えるのですがでは何のために生かされているのか? 生かされる事に意味があるのか? という疑問はずっと持っていました。数年前には自分がいなくなってしまえば・・・・と想像して苦しんだこともあります。しかし、そういう疑問や苦しみなどを解決に直接導くことはなくても違う道筋へ導いてくれるのがスピリチュアルの世界ではないかと思い始めています。

ひょっとして、にゃんママさんと出会い環境は違っても似たような事を思うことは偶然ではないかもしれません。少なくとも一人ではないって事です。





もう少し突っ込んだ内容に。。。と思いましたがそれはカウンセリングの続きとともに記載することにします。
[PR]
by kyouhei414 | 2011-05-28 00:56 | スピリチュアル
久しぶりにスピリチュアル・シリーズ
実は、数ヶ月前にあのスピリチュアル・リーディングを受けてきた。
江〇さんのやってるあれだ。
私は基本的に完全に信じているわけでもないし、信じていないわけでもない。つまり自分にとって都合がよければ信じてみるし、そうでなければボロッかすに言うだろう。ま、長い人生で一度ぐらい経験してみてもいいじゃないかという軽いノリもあり急に思い立ち予約した。って実は色々な迷いなどがあったからその気になったというのが正しいのだが。。。。


早速、リーディングの様子を・・・・・・・
亡くなった私の身内数人などが出てきて、メッセージを伝えてきたのだが予想外な人も出てきた。実際には人ではなく亡くなったマルチーズだ。ってか、私には見えないのでその先生の言われる様子からするとそのマルチーズのナナちゃんだろうということになる。ま、犬だからなのか特にメッセージはなったが祖母が抱いているという。

ちなみにこのナナちゃんは私が中学のころだったか母が遠縁に当たる身内からもらってきた犬だった。ナナちゃんは父のことが大好きで父もナナをとても可愛がっていた。
ある日、私が飲み会で夜中に帰ってきたとき、ナナが父の部屋から出てきて私に抱っこをせがんだ。いつもは遅く帰ったとしても私に姿も見せずに寝ているのに、どうしたのだろうか。そいう思いながらしばらくナナを抱っこしていた。そして、ナナもじっと私に抱かれ甘えていた。とにかくこのときのナナがとてもいとおしかった。それからどうしたか記憶にないが夜の月明かりとナナの白い毛がとても明るく感じたことだけは今も記憶に残っている。

翌朝、ナナは散歩に出かけたまま倒れて亡くなっていたのを近所の人が見つけた。あの時ナナを抱っこしていなかったら・・・・・そういう思いは今でも残っている。
どうしてナナちゃんなんだろうか? どうして恭平ではないのだろうか? 色々な不思議を感じながらもリーディングは続いた。


長くなりそうなので次回にしよう。
続く・・・・
[PR]
by kyouhei414 | 2011-05-25 23:41 | スピリチュアル
スピリチュアル シリーズ 多分4
スピリチュアルの歴史の中で有名なのはシルバーバーチですが霊界通信の記録が本になっています。その中で、動物のことにも触れています。

「可愛がられた動物は人間の情愛を受けて人間的性格を持ち始る。そして死後にもその個性をたずさえ死後も人間の霊に混じって生きている。」
「人間が可愛がる動物----犬、猫、その他のペット類----へ向けられる愛は死とともに終るのではありません。愛があれぱこそ生命は進化するのです。」
などと説いています。
私たちの愛によって個性が強められたペット達だからこそ、死後も存在していてくれるということなのです。単に、飼っていたペットだからとかいう理由でこのようなことはありえません。私たちの愛情のありかたがペットの個性を生み、そして私たちに限りなく永遠に継続する愛情を与えてくれるのです。



上記はダックスの恭平・スピリチュアルに掲載している文章から抜粋



この個性というのは一体何か?
じっとさくらとジュディーを見ていて感じたことがある。
それは自分の好き勝手が飼い主を喜ばせるという不思議な現象だ。
好き勝手というのは、本能に従い生きるはずの動物は本来危険が迫れば相手を攻撃するのも当然だし、生き延びるために食べるものを奪うのも当然で、行きたいところへ行き自分の居心地の良い場所で眠るのも当然の行動ということ。
例えば、人間と一緒に暮らしているペットが同じ行動をしたらペットとしては成り立たない。あたりまえではあるが・・・ただ、そういうペットでも好き勝手な行動をする。しかし、その行動は人間が見ていてほほえましく思える行動の時が多い。
大の字になって腹を見せ、なぜろと要求したり、寒いから抱っこしろとくっついてきたり、ドライブすればこの真冬に窓を開けろ、風を浴びたいんだ、と要求したり、全く上げたらキリがない。
これは、私たち飼い主が可愛がった形が”甘える”感情を生ませたのであってそこには必ず絆がある。ペット達も与えられた環境や愛情を知るからこそ、”動物”を超えた感情や生活を得ていく。それが個性となっていくということで、与えられた愛情により個性が強まったり弱まったりする。その子の性格にもよるけれど人間くさいペットをよく見かけるのはその個性のせいだろうと思う。
そうやって、ペット達の好き勝手は実は私たちに”あなたへの愛情だよ”といっているような気がするのである。


そしてペット達は天国へ旅立ってもその愛情を消すことはないのだろう。。。。。と思うのである。



今日の一枚
c0057041_1112124.jpg

[PR]
by kyouhei414 | 2011-02-26 11:12 | スピリチュアル
スピリチュアル・シリーズ2
って今日書こうとしている内容はタイトルが思いつかなかった。



あれは恭平は動物病院で「あと数日」と言われたときだったと思う。
「苦しむようなら安楽死を」と獣医師に言われた。

この言葉はショックで自分の記憶から消したいほどだった。
恭平を抱きながら帰り、私が恭平を苦しめているのかという疑問さえ持った。
しかし、恭平が言葉を話せるとしたら「安楽死させてくれ」と言っただろうか? 



これは、今も答えが出ていない。今、ジュディーとさくらが高齢になり恭平と同じ場所へ行く日もそう遠くないだろう。その時、同じ事を言われたら・・・・・・・




スピリチュアルでは霊界と地上界があると説明されている。
これが正しいかどうかは判らないし、私自信もしっかりと理解をしてない。しかし、これが本当で二つの世界がつながっていると仮定しよう。
魂と肉体が切り離されて、魂だけ霊界へ行くというのが死であると定義できる。すると、その二つを切り離す行為を私の決断で行う事になる。では本当は、誰が決めるのだろうか?
実際に誰が、という事が判らなくても、「苦しむようなら安楽死」と考えるのは傲慢なのではないだろうかと、感じてしまった。
苦しむ姿を見ていると辛いから、と考えるのならそれは、見ていると辛くなる自分をその辛さから解放するための理由にすぎない。



ならば何も出来ずに見守るしかないのに、私は何をすべきだったのか? 

その疑問に答えを出す必要はない。その時に出来ることを出来る限りやり、そして見守ること・・・・・
自然に離れて旅立つまで見送ること・・・・・
それでいいのかもしれない。
[PR]
by kyouhei414 | 2011-01-16 00:48 | スピリチュアル
スピリチュアリズム
最近は、スピリチュアルという言葉を当たり前に聞くようになっている。

しかし、一体スピリチュアルって何だろう?
これほど曖昧で意味の掴みにくいものはない、って思っていた。そこで、スピリチュアルの意味を調べていた。
その時、「動物は人間と違い死により全て消滅する。人間は死んでも魂が残る。しかし、可愛がっていたペットは死んだ後に飼い主が来るのを待つ」と説明されたものを目にした。

バカバカしいと思われる方も多いだろうが、少しお付き合いを。



私は元々両親と良好な関係ではなかった。子供の頃はずっとどこかに孤独感を持ち、自分は両親から一部しか愛されていないのではという不安も常に持っていた。その不安は両親を愛するとか、他人を無条件で愛することが怖いという症状を生んだ。
その症状を緩和してくれたのが恭平だった。私に無条件の愛情を向け、それに答えようと愛情を搾り出す自分を知った。恭平は決して物質的なことで表すわけでもなく、言葉で想いを伝えるわけでもない。しかし、表情はもちろん体全体、いや生活全てを私に向けてくれる。そして、その愛情を感じれば感じるほど、無心になれる自分がいた。
文字通り犬バカが出来上がったわけだ。
何匹かペットを飼ったのだが、そういった意味で恭平は私にとって必要な出会いだったのかもしれない。だからその記録を残そうと、私のサイトの「ダックスの恭平」に物語りを書いていた。きっと無条件に愛されることに不安を持っていなければ、わざわざ残そうとは思わなかったかもしれない。

そして、判ってはいても本当に目の前に恭平の死がやってきた。それも父の病と恭平の病、そして2ヶ月違いの恭平と父の死は私にとって深い悲しみを残した。悲しくて苦しく、自分もいなくなってしまえば楽なのに、という思いはしばらく私を苦しめた。guestbookでは同じ経験をされた方がいるので、その方たちと悲しみを共有し、同じ経験を共有した。

あれからこのサイトを消さなかったのはまだ悲しみにについて消化しきれないものがあり、書き残しがあるような気がしていたからだった。私の本当のやりたかったことは同じ経験をされた方、同じ悲しみを抱えた方が、一日も早く悲しみから笑顔になれるようなヒントを書くことだった。
しかし、答えも出ないまま時が過ぎ、そしていつしか目の前の出来事だけしか見つめていない自分になっていた。


それでも、悲しみから抜け出すヒントが見つからないのと同じように、恭平の遺骨を手元から手放せずにいた。夢にも出てこない恭平は今どうしているだろうか。父と一緒にいるだろうか、と思いをめぐらすが見えないことを想像して自分を誤魔化しているに過ぎない。

そんな時、その記事を読んだのだった。
決して無条件に感動したとかではなく、逆に色々な疑問を私に投げかけることになった。疑問などは又別の機会にするとして、簡単にスピリチュアリズムの説明を。


まず、スピリチュアルとは死者とのコンタクトが取れる事を信じる人の事を言う。
どうやってコンタクトを取る? その前にコンタクトが取れるという事は死者はどこかに存在していなくてはいけない。
では、どこに? 死者は体はなくなっても魂が残りそれが天に向かい天にいる。天といのは天国とは違うらしいが、とにかくその世界には自分を守ってくれる霊や導いてくれる霊も存在している。その場所に死者も向かう。
そこで基本的に色々な霊は私たちに語りかけてくれる。もちろん死者も上から見ていたり話しかけたりしている。しかし、五感しか持たない私たちはそれに気づかない。
上の世界の人たちは私たちの使う五感以外がコンタクト方法らしく、私たちの世界との連絡を取るには電話では当然無理だし、あちら側が使える五感以外のコンタクトツールを使うことになる。そのツールはなんと人間なのだ。その人間とはコンタクトツールを持っている限られた人になる。
注意することは霊能者とかそいういう類はここでは別物ということだ。あくまでコンタクトツール役が出来る人の事を言う。
もう一つ大切なことは私たちはこの世界で色々な苦難を乗り越える特訓をうけ、試練から勉強をして成長をすることが目的という事がある。この辺りは霊的な成長とか述べられていていささか微妙な問題なので次回にでもじっくり取り上げるが、大切なのは動物や植物を大切にしたり愛情をかけることは人間に課せられた責任であるということである。
その愛情をかけられた動植物は私たち人間に愛情を与えてくれる存在となる。結果として、お互いに良い関係で成長をしていくという。

魂は愛情を栄養にして成長していくものらしい。
人も動物も死んだ後に体が無くなれば、残るのは魂だけとなる。動物虐待などを繰り返していれば、当然体が無くなった後の魂は愛情という栄養がないので未熟なものだし、愛情を沢山経験したものは栄養一杯で魂は大きく成長する。動物も栄養一杯で成長した魂は飼い主を迎えることが出来るほどの成長した魂になる。
このことはもう少し範囲を大きく見ると自分の周り以外の万人に愛情を与える事で周りを救い幸せにできるという事になる。


とにかく私は愛情をかけてもらったペットが魂を持ち、天で飼い主を待つ、という事は事実であって欲しい。

それは、生きるための希望になるのだ。悲しくて悲しくて辛いほど・・・・という死別の悲しみを抱えると生きることへの疑問がわく。愛する人を奪った天を恨んでしまう。
しかし、これが本当ならば、たとえそれがペットであろうとなかろうと、あふれんばかりの愛情を与え、そして与えられた関係には別れはない。
この死別は今生の別れなんかじゃなく、彼らが自分を待っていてくれるそんないとおしい存在でいてくれるのだ。だから決して別れではない。
自分を置いて先に旅立ってしまった悲しみは、逆に言うと愛情の量と同じである。悲しいという事はそれだけ愛されたことの証明でもある。だから別れは決して無駄ではない。
愛する人が魂だけになってしまったとしても、あなたへの愛情は消える事はない。
もっと成長する事を望んでいるかもしれない。
いや、逆に地上に残っている私たちはこれからも多くの人に栄養を与える使命が残されているという事なのかもしれない。
[PR]
by kyouhei414 | 2011-01-15 01:16 | スピリチュアル