離は貞しきに利ろし。亨る。牝牛を畜(やしな)えば吉なり。
大まかにいうとこの卦には付く、という意味がある。
物事は必ず何かと関わり合い成り立っている。正しいものと関わるのなら、吉である。
易の実際はひとつの卦に6つの爻辞がある。この離為火の大まかな意味は上の通りだが、爻辞の3番目に「人生に即して言えば衰余の老年である。しかし、生者必滅の道理を悟れば、缶(酒を入れる瓦器)を叩いて歌いつつ、残りの寿命を楽しむがよい。それができなければいたずらに大てつ(八十の老人)の老衰を嘆くことになって凶である」としてある。
生あるものは必ず没するのが常であり、それを悟って残りの寿命を楽しむのがいい。それができないのなら、ただ老いを嘆くだけで終わってしまうわけで、楽しむどころか苦しいだけで終わってしまう。
これを見たとき、叔父がファックスで書いてきた「なるようにしかならぬ、ケセラセラ」を思い出す。いくつまでの天命か判らないが、癌になってしまったのをいつまでも嘆いていても仕方ない。残りの人生を楽しむんだ、という意味が含まれている。
しかし、そこにあきらめや嘆きがあるわけではなく、元気で長生きをしたいという叔父の強い願いを感じる。
終わりがあると悟ったからこそ初めて楽しむということを理解できるのかもしれない。
参考までに現在の天皇陛下の名前である、「継宮明仁」は易のこの離為火の中の
「明両たび作るは離なり。大人以て明を継ぎ四方を照らす」
から採ったという